開湯450余年のぬくもりの湯はうぐいすからの贈り物
鶯宿の湯を発見したのは、加賀の国からこの地に住み着いたきこり。鶯が傷ついた足をひたして治していたので「鶯宿」の名がつきました。
御所湖に注ぐ鶯宿川をさかのぼった山あいの温泉地
明治の初め頃には温泉宿が四軒で、年間利用客が千人位と伝えられている。昭和の初め頃までは和賀郡沢内村に通ずるには、山伏峠経由より繋温泉を経て待多部越しのほうが近いことから、通行の客もあり、また冬期間は雫石から馬だ湯治に出かけ、それに親類や近所の人たちが「湯見舞」と称して押しかけ、藩政時代から続いた「弥十郎」・「青山」の二軒は広く人々に親しまれていた。
戦後旅館が急速に発展し、現在は湯元で経営している川口旅館(弥十郎)、夜明沢に移って青山ヘルスセンターを経営している青山を始め三十軒を越えている。
(参考文献:雫石町史)

天正の頃(1573~1591)の発見と伝えられている。加賀国(石川県)の山賤で、「助」と称する者が陸奥に来て雫石郷の無尽蔵に見える見事な自然林に魅了され、となってこの地に住みついた。村人は生国を冠してこのを加賀助と呼んだ。あるとき、谷川に湯煙を見、探し尋ねて岩の間より湯の湧き出るのを発見した。たまたま、この湯に傷ついた脚を浸しては近くの梢に宿ることを繰り返していた鶯が、数日にして傷が治り飛び去った跡に紫雲のたなびくのを見た。不思議に思い、行脚の僧(盛岡祗陀寺二世住職)にこのことを問い、効能の著しい湯であることを知り、村人に入浴の便を計ったと伝えられている。また、鶯の湯治から「鶯宿」の名が起こったと言われている。
加賀助については、二戸郡安代町石神の斉藤系譜に、“鎮守府将軍藤原利仁裔歴代未詳、其先加賀国に住し、天正年間奥州に下り浄法寺に居住し浄法寺修理の譜代となる。
或は云ふ初雫石の山中に居り後浄法寺の岩渕に住し又田屋に居る云々” と伝え、天正年間泰高の代に奥州に下り、巌鷲山麓に住み鶯宿の温泉を発見したと伝えている。
石神の斉藤家は渋沢栄一によって全国に紹介された名子制度で有名な家で、石神の大家といわれ七代目までは加賀助または加賀を家号としていた。その一族も繁栄し、文化年間(1808~1817)金融によって巨大な利を得、盛岡から雫石まで他人の土地を歩かず返ることができる程の大地主であったと伝えられる斉藤屋善右エ門も其の一人と伝えられている。
鶯宿の湯の効能は、祗陀寺の住職(先の行脚僧)の口から伝えられてから次第に湯治に利用する人々が増していった。しかし湯治湯といっても僅かに雨風を凌ぐ程度の小屋と露天に浴槽があるに過ぎなかった。このように施設も整っていない山奥の谷間の湯にも、祗陀寺住職の勧めがあったであろう延宝七年(1679)から元禄五年(1692)にかけて藩主行信公の側室(岩井氏か、別に重信公の側室蟇目氏ともある)が御仮屋を建て度々来ていた。湯治を中止され御仮屋は盛岡川原町の某に下されている。また宝永二年(1705)八月二十四日から九月六日まで藩主恩信公並びに生母と奥方の三人が、葛西平右衛門以下百五十人の供揃いで湯治に来ている。十日余に及ぶ湯治であるから当然御仮屋が建てられ、また民家も使われたと考えられる。建てられた御仮屋は、その性格上一般の使用は禁じられ、湯守弥十郎がその管理を命じられている。
この頃には、加賀助の子孫は切留に移っており、藩主一家の湯治の際には湯守として弥十郎の名が見えている。弥十郎家は、岩手郡川口から移住したと伝えられ、加賀助の後をうけたもので、後に姓を川口と称している。藩主一族の鶯宿湯治が世間に伝えられ、次第にこの温泉を利用するひとも多くなったが、藩の保護もなく誰一人としてこれを援助し、施設の充実に協力するものはなかった。享保の頃(1716~1753)雫石て酒業を営む高嶋屋一佐エ門(上野)はこの状況を見て協力を思い立ち、費用を惜しむことなく浴槽を広げ、客室を造り、温泉場といえるような設備を整えていった。
一応の施設が整ったであろうか元文三年、(1738)には、藩主の姫君が湯治に来て、帰りには雫石の高嶋屋に立ち寄っている。
その後、寛政四年(1792)盛岡大工町の高木某なる者が、浴槽の浅く不便なことを知って改修に乗り出し、石工を頼んで堅い岩を五寸ほど掘り下げて入浴の便を計るとともに、新たに浴槽を造って湯治客の利用に供したと伝えている。このように次第に設備が整えられ、繋温泉と共に藩主の湯治場となった。
文政八年(1825)三月、利用公が鶯宿に湯治し、その帰りに洪水に遭い、四月十六日まで雫石の上野家に立ち寄られた。この時には雫石通りから人足三百人、伝馬百頭が動員されている。安政三年(1856)には藩主が三月二十六日から二廻りも長く湯治された。この間に山林を散策して春木の伐採や沢出しなどの様子を見たこと、南畑村の高齢者親子(九十七歳の親と七十七歳の子)を宿に呼び酒肴料として銭五百文を与え、親子とも無筆なため手に墨を塗って紙に押してこれを戴いたこと、村の若者たちが をお慰めしようと草角力を催し、供の侍も飛び入りするなどの盛況に藩主も御満悦で若者たちに酒を与えたことが伝えられている。このようなことから、鶯宿の湯の効能を認めていたのであろう慶応四年(1868)一月には、鶯宿の湯を城中まで運ばせている。湯の搬入には、雫石通与力藤村丑太が臨時に御物書きを兼ねて湯元に詰切(鶯宿駐在)を命ぜられ、湯搬出の責任者として勤めた。
以上の鶯宿温泉の由緒は、天明元年(1781)頃、弥十郎老人によって語られた記録によるものである。弥十郎(川口)に次いで鶯宿の温泉開発に加わったのは庄佐エ門(青山)である。
文政九年(1826)当時の鶯宿温泉の様子を伝えるものに、下の絵図(絵図1)が残されている。
(参考文献:雫石町史)